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言葉にすると枯れてしまう花

言語は万能ではない。

世に起こる全ての事柄を、なんでもかんでも言葉にできる訳ではない。

 

オタクは何か素晴らしいものを目にすると、語彙を失うことがしばしばある。

尊い」の一言しか出せないことがある。腐女子なら「しんどい」であるとか。

 

こうなる原因の一つとして考えられるのは「あまりにも感情の動きが大きすぎて、パニックで脳がショートしている」ということだ。

これは十分に考えられる。「あまりの驚きに言葉を失う」というのは、オタクに限らず適用されてきた文言で、何かパニックになると言語中枢が仕事をしなくなるのは、おそらく昔からあることなのだろう。

 

私も何かいい作品をみたとき、確かに衝撃にやられて言葉を失う。

が、しかし、私の場合は、冷静になっても言葉でそれを表現することはできないままなのだった。私は単に衝撃という要因だけで語彙を失っている訳ではなさそうだ。

 

日本語というのは繊細で、奥深い。感情の動きなどもうまく表現できる道具である。

しかし、日本語にも「言葉で言い表せない」という文言からわかるように限界がある。

 

「言葉で言い表せない」「オタクは尊いしか言えない」

 

きっと、それは語彙不足と言うよりは、言語の果てをみていると言った方が良いのかもしれないと、私はふと思った。

衝撃的に大きな感情の動きを、これと正確に言い表すだけの機能を、言語は持ち合わせていなかっただけなのだ。

 

「どれだけ自分の感情に、作品の本質に文章を寄せたとしても、自分が感じたありのままを、言葉に乗せて相手に伝えることはできないのかもしれないなあ。」

私は、「やがて君になる」を読んでそう感じた。

言葉に言い表すと、その存在を低次に引き摺り下ろしてしまう気がする。私の思ったことを言葉で伝えるのは難しすぎる。

この素晴らしさを人に伝えるには、それを直接見てもらうしかないような気がする。

 

もちろん、どんな作品でも、それを要約して相手に伝えることはできる。

しかし、要約なんてものでは、その作品の要素全てが織り成す本物の感動を伝えるなんて、とてもじゃないができる訳が無い。

 

だから私は、どうしても素晴らしい作品を勧める時、「やばい」「良い」「尊い」「しんどい」「無理」といった言葉しか相手に渡すことができないのだった。

他のオタクもそうなのかは私は知らないが、少なくとも私はそうだ。

 

しかし、それでも良い気がするのだ。

 

むしろ「ここがこうで、こうなんだよ!」なんて言い表したら、きっと作品をその程度で収めてしまう。花が枯れてしまう。そんな気がする。

そうなってはいけないから、あえて抽象的な言葉を使って、その裏に眠る巨大な要素やら感情やらの体系を丸ごと共有しようとする。

 

これはある意味、語彙だけで埋め尽くされた表面だけの言語コミュニケーションより、ずっとレベルの高いものなのかもしれない。人間の共通認識や何やらを駆使して、もはや言葉という道具を超越した、新たな伝達の方法とも考えられる。

 

若者言葉の「ヤバい」も似たようなものだと思うのだ。

若者の語彙力というのは下がっているのかもしれないが、しかし言い換えれば、もはや言語というものに囚われず、その裏に眠る大きな情報を「言の葉の裏に隠して」共有するようになってきているのかもしれない。

 

もちろん、私はこれを手放しで肯定することはない。裏に隠してしまっては伝わるものも伝わらず、コミュニケーションに障害が出る可能性もある。適切な語彙を身につけ、「ヤバい」の便利さに甘んずることなく情報を共有する力も大切だ。

 

しかし、もちろん無闇に否定もしない。抽象表現というのは、曖昧だが、だからこそどんな感情や要素をも内包することができる。自分が思っている感情を、これだと限定せずに相手に伝えることで、相手に自分の感情を理解してもらう。

抽象表現で伝えるという方法は、時に大きく効果を発揮する可能性もある。私はそう思った。